生き物の世界に分かったはない

昨日分娩した2頭の牛が起立不能になって今点滴中。

去年分娩のトラブルがあった後に、餌のやり方をちょっと変えたら、上手くいってたなと思ってたら、最近分娩後の牛の調子が悪いのはどうやらその餌のやり方の変化によるものらしい。獣医さんと話してそうだと気づいた。

そして獣医さんに言われた。「生き物の世界だから、毎年牛も変われば草も変わる。分かったようなことを言う人が多いけど、そんなものないよ。」

これで完成okみたいな方法論はこの世界にはない。毎日牛を見て勉強してその繰り返し。それでいい。失敗してもいいから、大事なのはそこから何かを得ているか。ただ悔しがってでは、その失敗で死なせた牛に申し訳が立たない。

運命

久しぶりに書く。

先週末に、ボート部の2コ下のキャプテンの結婚式に招待されて、久しぶりに東京に舞い降りた。同期がなかなか結婚しないもんだから、行ってやった。

ついでに東商戦の頃はここ何年か牛の分娩が多く、なかなか行けてない。

皇居に近いかなりでかいホテルで披露宴があり、ちょっとお上りさんでビビっていたが、久しぶりにコーチ・先輩・同期・後輩に会えたうれしさですぐにハイテンションになり、そして新婚の後輩の姿を見て、感動した。その分北海道に帰ってきたら、かなりさみしい気持ちが続いて、毎日結婚式があればいいのになんてことを思った。毎日あったら飽きるか…。同じ留年組の勝田に10年ぶりに会えた。何も変わっておらず、本当にうれしかった。

頑固で不器用で律儀な後輩。披露宴の雰囲気がそれを物語っていた。本当にいい奥さんだ。会う運命にあったのだろう。

結婚式の前日に東京に着いて夜時間があったので、とりあえず新宿に降りてみたら、普段の生活の2億4千万倍の人口密度に耐えられなくなって、気の赴くままになぜか埼京線の各駅停車大宮行きに乗ってしまい、そのまま戸田公園駅で降り、そして「ぽんぽこ」の明かりに吸いよせられた。

何年かぶりに食べるレバニラ炒めの味に涙が出そうになり、そして何年かぶりに飲むホッピーでベロベロになり、その足でボートコースに行ってしまった。何も変わらない。艇庫を少し遠目から見る。ポンビデを見ている現役。音楽をかけながらウエイトをやっている現役。来週が全日本なので、少しピリピリしているだろう。傍から見たらただの不審者なので、ポンドで10分ほど物思いにふけり、ホテルに帰った。

北海道に帰って寂しさもあるが、家に着いたとたんに子供2人が走って「お父さーん」と来てくれた。そうだった。俺には家族がいるのだ。忘れてはいないが、そのありがたさを一層強く感じた。

自分ももし今のかみさんと出会わなかったら、今頃国立チェリー学園の生徒だっただろう…、いや、まだ結婚していなかっただろう。いつも思うが、こんな俺のなにがよかったんだろうなと思う。酪農のハードワークに耐えれそうだったからか?

そろそろ結婚10周年。後輩の結婚式で感じた心のぬくもりを胸に、クサいけど「愛羅武勇」って言ってやろうと思う。

2016年

久々に書く。もうここまで書いてないと、自分に向けて書いているようなものだ。今年は何か自分に起こったことを誰かに話したり、公開するような気にならなかったといえばかっこつけているような気がする。

2014年に牧場を離れて今までの牧場のことを整理しつつ、NZで起こっていることや酪農スタイルを学び、たった2か月ではあったが、自分のやりたいことと現実のすり合わせを2015年、仕事をしつつやってきた。

去年はより効率的な放牧を実践できるように、既存の放牧地と放牧したい圃場の周りを、頑丈な牧柵で囲む作業を空いた時間に行った。土壌凍結が入る間際の12月26日までかかった。実習生には無理をかけたが、いい仕事ができた。

そして今年、目の前の結果にこだわりつつも、中長期的に自分のやりたいこと、やらなければならないことを少しずつ形にしていきたい。なんだかんだでかっこいいこと言ってても、酪農は目の前にいる牛を喜ばしてなんぼなのだから。

今日は子供と凧揚げをやった。そういえば、農協職員の有望株の若手が浜中を去ることになった。理由を聞けば、子供の将来を考えると、より選択肢の多い都市部に引っ越した方がよいということで。

おれはそんな常識を覆したい。自分の子供が浜中で立派に成長することで、そんな常識を覆したい。選択肢がないからたくましく生きることだってできる。

そんなわけで、また書くかもしれないし、書かないかもしれないが、今年の決意表明をしてみた。


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子供を寝かせて

娘の夏休みもあと残り1週間。北海道の夏休み短くて、その代り冬休みが長い。去年はNZにいて、何もしてやれなかったので、なんとか工作とかいろいろ一緒にやろうとした。まだやりたい気持ちはあるが。

7月にはボート部の後輩が2組家族で遊びに来てくれた。久々に「宮下さん」と言われて、少しだけ昔にタイムスリップした。かつて同じ釜の飯を食べて、同じ風呂にすっぽんぽんで入っていた同志が、違うフィールドで戦っている。それだけで頑張ろうと思える。

6月には高校の大きな同窓会があり、今年は自分たちの代が幹事だったので、何としても行きたかったのだが、娘の運動会と重なって行けなかった。どこでもドアがあれば、ダブルブッキングできたのだが、100年早かった。そこでもいろいろな出会い(女の子から「実はあの頃、宮下君のことが…」なんて!!を含む…ないか)や再会を期待していたが。

応援団の同期との約束を果たせず、無念の気持ちである。

とにかく今は目の前のことに集中して、家族を養う。ただそれだけだ。

乳牛にハッピーエンドはない

またずいぶんと書いてなかった。

去年の今頃NZに行っていた。時が経つのは早い。

6月15日に牧草収穫が始まり、天候不順などを経て、なんとか収穫が終了した。そのまま牧草地への尿散布や放牧地の掃除刈りなど…。農繁期になると流れるように一年が過ぎていく。

おとといの朝。分娩近い牛がいたのに夜中牛舎の見回りに行かなかったので、「大丈夫かな~」と心配しながら牛舎に入った。その牛はまだ分娩していなかったのでホッとして反対側を振り返ると、昨日まで元気だった一頭の牛が、見るも無残な姿で死んでいた。前日の夜に風が強く、その風が牛の上にある電気ショッカー(糞尿をするときに、牛床を汚さないようにするためのもの)を落としてしまい、その電気に牛がびっくりして無理やり前に突っ張ってしまい、引き返せない状態で、首輪に首が引っ張られて窒息死していた。

唖然としたが、このままの状態で仕事はできないので、妻と一緒にロープを牛につけて、トラクターで引っ張って牛舎の外に出した。

こんな死なせ方は10年やってきて初めてだった。脳裏にその死にざまが焼き付いている。

牛飼いをやっている以上、アクシデントは起こりうるものだ。そのアクシデントで牛が死ぬこともある。それは10年の経験で覚悟はしているが、それに抗いたい気持ちがあるのも事実で、なるべくなら起こらないでほしいと願っている。

でも起こる。そんな時はどうしようもない気持ちになる。でも毎日の仕事は目の前にある。だからやる。そうしなければ他の牛も死ぬし、家族も食っていけない。

その失敗で勉強するしかない。数々の失敗を経て、一人前の農民になるのだ。

現実をかみしめて

酪農をはじめてから10年で、考えることはいろいろ変わったり、出発点に戻ったり。

最初に自分の中にあった問題提起はいまだにあるのだが、それに加えて様々な課題、しかもそれらは日本の農業の問題とかではなくて、より具体的な、わが牧場をどうするか、という課題。

どういう風に借金を返していくか。今ある古い牛舎をどうするか?自分が60まではもたないだろうから、リフォームか?それとも新築か?

子供のこととも真剣に向き合いたい。よりよい道を歩んでいけるように、全力でサポートしたい。でも生活のために一生懸命仕事もしたい。しなければならない。

まあ酪農に限らず全ての仕事人が思い悩みながら日々を生きているのだろう。